[第4シリーズ] 第2回

「ダーウィン—希代のナチュラリスト」Q & A

回答者:渡辺政隆先生

【 質問1 】
 ダーウィンの進化論が宗教的な問題で現代でも米国など受け入れられていないそうですが、日本においてタブーとならなかったのは、紹介された当時の時代背景が受け入れやすい状況だったのでしょうか?
【 回答1 】
 そういう事情はあったと思います。明治維新後に導入された西洋科学の1つとして進化論が紹介されました。ダーウィンの進化理論を本格的に講じたのは、東京帝国大学の御雇外国人教師エドワード・モースによってでした。仏教の教えに抵触することがないこともあり、生物は進化してきたという進化論は抵抗なく受け入れられました。しかし、それと同時期に紹介された社会学者ハワード・スペンサーの社会進化論は、当時の富国強兵のイデオロギーと合致し、ダーウィンの理論よりもむしろこちらが世の中に流布しました。その結果、弱肉強食、優勝劣敗といった用語が一人歩きするようになり、ダーウィンの自然淘汰(選択)説とは優勝劣敗の説だという間違った解釈が一部で広まることになりました。もしかしたらそうした誤解は今もあるかもしれません。
【 質問2 】
 ダーウィンも獲得形質の遺伝はある程度は有り得ると考えていたのでしょうか?
【 回答2 】
 はい、そうです。当時は遺伝の仕組みがまだわかっていませんでした。そこでダーウィンは、パンゲネシス(パンジェネシス)という理論を提唱しました。これは、体細胞中に存在するジェミュールという粒子が獲得した遺伝形質の情報が生殖細胞に集められ、子孫に伝わるとする獲得形質の遺伝の仕組みです。平野先生の講義にあったように、同時代人だったメンデルは、遺伝情報を担うエレメントの存在を提唱していましたが、ダーウィンはその研究を知りませんでした。
【 質問3 】
 ダーウィンによる種や亜種の定義は、どのようなものだったのでしょうか。少し前までは、交雑が不可能なものは別種とする、という定義もあったと思いますが。
【 回答3 】
 『種の起源』では、種や亜種の定義はなされていません。当時は、専門家が見れば形態の違いで種や亜種は区別できるとされており、ダーウィンもその立場でした。現在は、形態や交雑可能性(これは「生物学的種概念」と呼ばれています)よりも、ゲノム情報による種の判別が主流になっています。
【 質問4 】
 「種の起源」の中でダーウィンは中立進化の可能性についても述べていたと記憶しています。
【 回答4 】
 五条堀先生の講義で詳しい説明があると思いますが、中立進化説は、木村資生博士が1968年に提唱された、分子進化の仕組みです。したがってダーウィンの時代には思いもつかない説です。深読みをすれば、自然淘汰(選択)にかからない形質もあるととれなくもない書き方をしている箇所もありますが、中立進化説とは視点が異なります。ただ、ダーウィンは進化の仕組みとして自然淘汰は万能だとは言っていませんし、生物のすべての形質が適応的だとも考えてはいなかったと思います。
【 質問5 】
 種の起源は、和訳しか読んだことないですが、進化という言葉を使われていなかったという話が出てきましたが、進化がダーウィンの考えの中になかったという解釈でよいのでしょうか。
【 回答5 】
 いえ、今は進化を意味するevolutionという単語に、1859年の時点ではまだ[進化]という意味がなかったということです。この語の動詞形であるevolveという語は、『種の起源』の初版の最後の一節に、evoluvingという形で登場します。これは、「展開する」「発展する」という意味で使われています。ダーウィンの時代、今の進化にあたる語としては「転成説transformation」が一般的でした。ダーウィン自身は、「変化を伴う由来descent with modification」という語を使っていました。しかし、出版後、evolutionという語がそれに取って代わって一般的となったため、1872年に出版した第六版では進化という意味でevolutionという語を使っています。
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