テーマ 5遺伝にはルールがあります

レジナルド・パネット ウィリアム・ベイトソン レジナルド・パネットウィリアム・ベイトソンは、最初の英国の遺伝学者に数えられました。パネットは遺伝子の組み合わせの数や種類を示すために“パネット・スクエア”を考案しました。また、ハーディー・ワインバーグの法則を形作る役割を担いました。パネットとベイトソンは、“カップリング”もしくは遺伝子連鎖を共同で発見しました。ウィリアム・ベイトソンは、メンデルの法則に、英国の科学者の注意を向けさせました。

ウィリアム・ベイトソン(1861-1926)


ウィリアム・ベイトソン

 ウィリアム・ベイトソンは、イギリスのホイットビーに生まれました。少年の頃、ベイトソンは、何になりたいかと聞かれました。彼は、医者になるほど頭がよくありませんでしたが、自然科学者になりたいと答えました。ベイトソンは、飛び抜けて優秀な学生ではありませんでした。彼は“古典”を学ぶことに価値を見出さず、自然科学を好みました。1878年、ベイトソンは、ケンブリッジ大学のセント・ジョーンズ・カレッジに入学しました。ケンブリッジの学生、後に研究者として、ベイトソンは、生物の種の多様性と遺伝に興味を持ちました。彼は、中央アジアの大草原地帯を旅し、環境状態がどのように多様性に関連するかについてのデータを集めました。1894年、その観察を元に、“Materials for the Study of Variation[多様性の研究のための材料群]”という本を出版しました。この本の中で、彼は、遺伝の研究のために行うべき実験的な取り組みの概要を述べました。彼は、メンデルの実験をデザインしていたのでした。

 1897年頃、ベイトソンは、家禽と蝶を使って、雑種形成の実験を始めました。ベイトソンは“メンデルの”法則が重要であることに気付きました。特に、彼自身の実験に提示されたものとして。1902年までに、ベイトソンは、メンデルの著作を英語に訳し、メンデルの遺伝の法則の強力な支援者になりました。ベイトソンは“遺伝学”、“対立形態形成子(後に対立遺伝子と短くなりました)”、”接合子“、”ヘテロ接合子“そして”ホモ接合子“という用語を造ったことで知られています。1908年にベイトソンは、ケンブリッジの生物学の教授として、ケンブリッジ遺伝学研究所の設立を援助しました。

 ベイトソンは、ケンブリッジを1910年に去り、メントンにあるジョン・イネス園芸植物学研究所の所長を引き受けました。彼は、ケンブリッジとのつながりを維持しました。R.C.パネットと共同研究をして、遺伝学の実験と論文発表を行いました。1910年、ベントンとパネットは共同で“Journal of Genetics[遺伝学雑誌:英文の論文誌]”を創刊しました。

 ベイトソンの研究とベイトソン自身は、他の生物学者や科学者たち、例えば、アーチバルト・ギャロッドトーマス・ハント・モーガン、そして、チャールズ・ダベンポート、に影響を受けました。ベイトソンは闘争的で強い性格であり、自ら割り当てたメンデルの支持者としての役割が似合っていました。しかしながら、彼は、遺伝の染色体理論を信じようとはしませんでした。彼は、この考えにあからさまに反対しました。彼が、染色体とその遺伝での役割について公に認めたのは、1922年に、トーマス・ハント・モーガンの研究室を訪れた後のことでした。

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ベイトソンの家族の人生は、きわめて悲惨でした。彼の息子のひとりは、第一次世界大戦が終わる直前に亡くなり、別のひとりは1922年に自殺しました。

Hmmm...

科学者にとって一緒に研究し、お互いの結果を知ることは、どのくらい重要なのでしょうか?