テーマ 14メンデル遺伝学だけではヒトの健康や行動を説明できません

チャールズ・ダベンポートチャールズ・ダベンポートは優生学運動のリーダーのひとりでした。彼は、メンデルの法則を応用し、より良いヒトの遺伝資源を“作り上げる”ことで、ヒトの進化を方向づけようとしました。

チャールズ・ベネディクト・ダベンポート(1866-1944)

チャールズ・ダベンポート

 チャールズ・ダベンポートは、その時代の最も有名な生物学者のひとりでした。彼はコネティカット州のスタンフォードで生まれ、ハーバード大学で教育を受けました。しばらくの間、彼はシカゴ大学の教授をしていました。

 1890年、ダベンポートはコールド・スプリング・ハーバーにあるブルックリン財団によって創設された生物学研究所の所長になりました。カーネギー研究所が進化の研究センターを設立するための場所を探し始めた時、ダベンポートはニューヨーク、ロング・アイランドのコールド・スプリング・ハーバーが理想的な場所だと彼らを説得しました。実験生物学研究所は1904年に開所し、ダベンポートは初代所長に就任しました。1910年、鉄道王E. H. ハリマンの妻から資金的な援助を受けて、ダベンポートはコールド・スプリング・ハーバーに優生記録局(ERO)を設立しました。ダベンポートは「優生学の一般向けの課題は明らかである、それは若者により正しい結婚相手を選ばせるように、また賢く恋愛するように誘導することによって人種を改良していくことであり、精神的に不適格な人たちを増やさないように管理することも含む」と考えていました。

 それからの11年間、EROは、男性と女性に優生学の“科学”とデータの収集を教えました。現場の作業員は“遺伝性の”ヒトの形質について膨大な量の記録を蓄積するのを助けました。EROは結果を速報に掲載し、ニュースレターも発行しました。ダベンポートと優生学者の運動は、避妊、移民、そして異人種間結婚について州法に影響を与えました。1921年に、EROは実験進化研究所と統合され、遺伝学部門となりました。ダベンポートは、1934年までそこの所長を続けました。

factoid Did you know ?

フランシス・ゴールトンは優生学運動を始めたひとりです。彼は、“良く生まれた”という意味から“eugenics(優生学)”という用語を作りました。ゴールトンはチャールズ・ダーウィンのいとこです。

Hmmm...

優生学運動は失墜しました。しかし、第二次世界大戦前までは、優生学は一般大衆に人気のあるテーマでした。なぜ、一般市民は優生学運動を受け入れ、支持したのでしょうか?