テーマ 4いくつかの遺伝子は優性に働きます

グレゴール・ヨハン・メンデル(1822-1884)

認められなかった人

 遺伝に興味を持っていたのはグレゴール・メンデルだけではなく、植物で研究したのも彼が最初ではありませんでした。それではなぜ、彼の結果は1900年の遺伝の法則の再発見までほとんど知られることがなかったのでしょうか?

 一般的な考えでは、メンデルは修道士であり、ひとりで研究していて、科学的に孤立した状況にあったからだとされています。彼の論文は、広く行き渡ることがなく、自分自身を宣伝することもなかったので、無視されました。実際には、原因はもっと複雑です。

 メンデルは当時の社会や科学のサークルの一員でした。彼はウィーン大学で学び、多くの著名な科学者たちと交際がありました。彼には、旅行したり、学会に参加する機会もありました。1865年に彼の論文がブリューン自然科学会紀要に発表された時には、少なくとも120の他の(学術)団体や学会の出版物と交換されました。論文は、多くの図書館や科学研究所でも読むことができました。加えて、メンデルは、当時最も有名だった植物学者の何人かに40冊の増刷を送りました。

 別の先導的な植物学者カール・ネーゲリとのやり取りに、メンデルは興味をかきたてられました。ネーゲリは、有性的にも無性的にも増える、彼にとって未知の植物であるヤナギタンポポの研究をしていました。ネーゲリはメンデルに雑種形成の研究を、ヤナギタンポポを用いて行うよう説得しました。メンデルはヤナギタンポポをモデルとして使いましたが、ヤナギタンポポでは彼の遺伝の法則を証明することができず、努力を断念しました。ネーゲリ宛の手紙から、メンデルが謙虚であることが分かります。ヤナギタンポポでうまくいかなかった事実は、彼の遺伝の法則が全ての生き物にあてはまる、真に“原理的”なものなのかという疑問を彼に投げかけました。もちろんネーゲリはメンデルの結果がヤナギタンポポに当てはまらないことを知って、(遺伝の法則は)誤りに違いないと考えたのでしょう。

 メンデルは、植物学者としては一風変わった方法で、データを表現していました。自然科学は伝統的に、より描写的なもので、分類目的に使うために細部まで記述するものでした。当時の植物学者はたしかに雑種の子の数を数えていましたが、特徴[形質]の遺伝と数を関連づけるというより、収穫量の記録に熱心でした。メンデルのように遺伝を数学的な比率で表す方法は、おそらく多くの植物学者には理解できなかったのでしょう。メンデルの結果に言及した発言は、大抵メンデルが作った雑種に注目したもので、数理的な部分については全く無視されました。

 科学やまた他の分野でしばしば起こるように、時事的な話題は、人々の想像力を引きつけますが、他の話題の全てに影を落とし、気づきにくくしてしまいます。1860年代の注目の話題は、チャールズ・ダーウィンの進化論でした。この理論を巡る論争により、エンドウの研究は容易に見過ごされました。皮肉なことに、この研究は進化の過程で、どのように多様性が遺伝するかを調べたものでした。そのことが1900年のメンデルの法則の再発見につながったのです。

factoid Did you know ?

メンデルはチャールズ・ダーウィンの進化論について知っていました。ブルノのメンデル博物館には、メンデルが所有したダーウィンの“the Origin of Species[種の起源]”のドイツ語版があります。メンデルはその本に下線を引いていました。

Hmmm...

メンデルは、チャールズ・ダーウィンの進化論について、何と言っていたと思いますか?