テーマ 41DNAはヒトゲノムを理解するための始まりにすぎません

マリオ・カベッキ ブライアン・サウアー マリオ・カペッキは、相同組換えを用いてマウスで、遺伝子を狙って変異を起こす技術を開発しました。ブライアン・サウアーは、遺伝子を欠損させるためにファージのCre/lox組換えシステムを哺乳類に適応しました。

マリオ・レナート・カペッキ(1937-)


マリオ・カベッキ

 1980年、マリオ・カペッキは、不確かな未来に直面していました。審査員たちは、彼がNIHに送った研究提案書を“研究の価値無し”と考えていました。そのため、カペッキは賭けにでて、その新しい研究に他のプロジェクトの資金を転用しました。もし、賭けが成功しなければ、カペッキは全ての研究資金を失う覚悟で、あえて危険を冒しました。それは今日の“論文発表せよ。さもなければ消え去れ。”という、大学における研究者の死刑宣告にさらされたようなものです。しかし、戦時中に、イタリアの道路でホームレスの孤児として5年間を過ごした男にとって、そのリスクはたいしたことがないように見えました。

 カペッキは人生の最初の4年間、詩人の母親、ルーシー・ドット-ランベルクと一緒に住んでいました。ルーシーは、イタリア北部のファシズムに反対する芸術家グループに参加していました。そこで彼女は、マリオの父親であるイタリア空軍の将校に出会いました。「彼らは情熱的な恋愛をしましたが、母は、彼と結婚することを拒んだのです」と、カペッキは言っています。

 第二次世界大戦が始まった時、マリオの母は、他の自由奔放な芸術家と一緒にいましたが、ナチスの公安部隊に逮捕されて、ダッハウ強制収容所に送られました。ルーシーは逮捕を予測して、マリオのために所有物の全てを売り払い、受け取ったお金で友人と暮らせるように手配しました。しかし、1年後には、そのお金は使い果たされたか、マリオの父によって盗まれたかで、その5歳児は、自力で生きていくように放っておかれました。

 マリオは南に行き、青空市から食べ物を盗み、爆破された建物の中で眠る、他の家無し孤児のギャングに加わりました。警察は何度も何度も彼を捕まえ、児童養護施設や病院に彼を送りました。しかし、そこでの生活も最悪でした。病院では、日に一度の一杯のコーヒーと一切れのパンが、栄養不良の治療のために使われ、マリオは熱性の精神錯乱により、(シーツを)剥ぎ取られたベットに裸で横たわって、何日も過ごしました。

 戦後、カペッキの母親は、刑務所から解放されました。そしてボローニャの近く、レッジョエメリアの病院でマリオを見つけるまでの1年間、イタリア中を探しました。その女性は、彼が覚えている母のように見えませんでしたが、彼女は、病院から彼を連れ出すことを約束しました。それから彼は一緒に、アメリカのフィラデルフィア郊外にある彼の叔父のいるクエーカー教の生活共同体に旅立ちました。エドワード・ランベルクと彼の妻サラは、マリオをおとなしくさせることに悪戦苦闘しました。ルーシーが子供の面倒をみるには、戦争で心理的に傷つきすぎていることが明らかになった時には、マリオはすでに9歳になっていました。

 マリオは英語の知識を持たずに、その地域の公立学校の第3学年に入りました。そして、彼の同級生を殴り倒すことに、ほとんどの時間を費やしました。高校になる頃には、スポーツへの参加を通して、部分的に社会に順応しました。カペッキは、学校のラグビー、野球、サッカーやレスリングチームでプレーしたことが、後の人間関係に役に立ったと思っています。

 [オハイオ州]アンティオーク大学 で、カペッキは、彼の自尊心と社会的責任の感覚を組み合わせるために、政治学の勉強を始めました。しかし彼は、政治にはほとんど科学がないことを発見し、物理学や化学のためにそれを放棄しました。1961年に卒業する前には、大学院では分子生物学へ変更するだろうことも分かっていました。その分野は、何もかも可能性があり、どんな質問でも問いかけることができるほど、新しかったからです。

 カペッキのハーバードでの指導教官のジェームズ・ワトソンは、小さな答えを生み出すだけになりそうな小さな問題を避けるように、マリオを導びきました。1967年までにカペッキは学位を取り、1968年にハーバード大学医学部の生化学学部に加わりました。

 ボストン地域には、数千人の研究者や潜在的な共同研究者がいるにもかかわらず、カペッキは、彼の頭の中にある大きな疑問を自由に追いかけるために、もっと隔離される必要があると感じていました。1973年に彼は、進化から分子生物学までをカバーしている学部に20人の同僚がいるソルトレイク・シティにあるユタ大学に移りました。

 カペッキが1980年に、自身の研究資金を用いて行なった専門的な賭けは成功しました。そして、望む任意の遺伝子も正確に変異させる哺乳類動物の機構を利用する方法に近づきつつありました。その技術は、研究者に研究のためにヒトの病気を持ったマウスを作りだすだけでなく、将来的には病気を引き起こす遺伝子を正しく直すための遺伝子治療に使われるかもしれません。1984年に彼がNIHに再申請を行なった時に、審査員は失態を認めました。「我々のアドバイスに従わなかったことを、うれしく思います」と。カペッキとエバンスとスミティーズには、2007年のノーベル生理学・医学賞が授与されました。

 マリオ・カペッキは現在、ユタ大学のヒト遺伝学の教授です。彼は、妻と娘と一緒にソルトレイク・シティ近くの山にある、人里離れた家で暮らしています。1996年には、人類の向上における、彼の生涯の功績を讃える、京都賞を受賞しました。

factoid Did you know ?

マリオ・カペッキは仕事の鬼だと、言われています。彼はしばしば、一日中休み無しで胚を集めたり、[胚に]注射したりする仕事をしています。

Hmmm...

形質転換したES細胞が胚盤胞に注入されると、 ES細胞は発生中の胚の中に取り込まれます。どのように?