テーマ 30高等生物の細胞は共生により染色体を取り込んでいます

イヴァン・ワーリンイヴァン・ワーリンは、ミトコンドリアが細菌に由来したというアイデアを提唱した、最初のひとりでした。

イヴァン・エマニュエル・ワーリン(1883-1969)

イヴァン・ワーリン

 もしあなたが、イヴァン・ワーリンの解剖学の授業を取っていたなら、しっかり準備をしていないと、“ミトコンドリア・マン”に激しく叱られることでしょう。ワーリンは授業中、講義をする代わりに、学生たちを解剖台の周りに集めて、死体を解剖しました。解剖しながら、周りの学生たちに質問を浴びせかけました。間違った答えをした学生は、胸を殴られました。

 イヴァン・ワーリンは、大人になったら教師になりたいと、ずっと思っていました。スウェーデンの移民の子どもとして、ワーリンは、オハイオ州スタントンの小さい農園のコミュニティで生まれ、育ちました。彼は、オーガスタナ・カレッジプリンストン大学に行き、それから、1905年にアイオワ大学で学士の試験を受けました。ネブラスカ大学で修士の学位(1908年)を、ニューヨーク大学(1915年)で解剖学での博士の学位を取る間にも、生物学を教え始めていました。1918年、ワーリンはコロラド州ボルダーに移り、コロラド大学医学部の教授になりました。彼の異様な教育スタイルは、そこから始まったのでした。

 ワーリンは、教室内では恐れられていましたが、教室の外では親切でした。彼は、学生たちのためにパーティを開き、そのお礼として、学生たちは、ボルダーから20マイル北にある、ノース・セントブレイン・キャニオンに山小屋を建てるのを手伝いました。“クラブ・ワーリン”で、教授と学生たちは、夜にはポーカーを楽しみ、南京錠のかかった酒の棚をひそかに盗み出しました。昼の間、ワーリンは、鴨を撃ち、マスを毛針で釣り、山小屋の家具を手作りしていました(学生たちはおそらく二日酔いだったのでしょう。)。

 ワーリンが楽しみにしていた、最も大きな行事は、クリスマスのグロッグパーティでした。そこでは、100人もの客が呼ばれ、スウェーデン式のごちそう、例えば、シルサラダ(酢漬けのニシンのサラダ)、ルテフィスク(干したタラを水で戻し、あく抜きして、調理したもの)と、グロッグ(グリューワイン:ワインとアカビット[蒸留酒]で造るアルコール度数の高い、温かいカクテル)が供されました。ワーリンは、スウェーデン民謡をピアノで弾いて、客人をもてなしました。

 1920年代に、ワーリンは、医学部の教室の裏の納屋で、ミトコンドリアについてのアイデアを試しました。そのころ、多くの人が、ミトコンドリアは細胞から進化したものだと信じていました。しかし、ワーリンは、目で見て区別がつかないので、ミトコンドリアは細菌だったのだろう、と考えました。彼は、9本の論文を続けて書き、彼の理論と実験について説明しました。その中の一報で、ミトコンドリアが細菌であったという確かな証明をした、と主張しました。細胞外で、ミトコンドリアを培養できたと。

 ワーリンの培養に雑菌の混入がなかったとは、誰も信じませんでした。ただ、振り返ってみても、彼らは正しかったのです。細胞外でミトコンドリアを培養することは、不可能です。[ミトコンドリアが]必要とする95%のタンパク質の設計図は、核のDNAにあるからです。厳しい批判により、ワーリンは科学者の社会から去ることになりました。ワーリンはその後、教育と運営管理に携わって過ごしました。ワーリンの説が部分的に正しかったことが分かる証拠が集まり始めたのは、彼が亡くなった後でした。

factoid Did you know ?

ミトコンドリアの進化について研究したリン・マーギュリスは、天文学者で宇宙科学者のカール・セーガンと、かつて結婚していました。

Hmmm...

他の細胞内小器官も、細胞内共生により進化したと思いますか?