テーマ 12進化は遺伝子変異から始まります

チャールズ・ロバート・ダーウィン George Harrison Shull チャールズ・ダーウィンの進化論によって世の中は変わりました。彼の理論はまた、科学者たちに遺伝と遺伝形質についての問題を考え直す機会をもたらしました。それはメンデルの法則の再発見や遺伝学の分野としての進化学の発展へとつながりました。ジョージ・シャルは実験進化研究所で研究しました。彼はトウモロコシや他の農作物の収量を上げるために遺伝学を利用しました。

チャールズ・ロバート・ダーウィン(1809-1892)


チャールズ・ロバート・ダーウィン

 チャールズ・ダーウィンはイギリスのシャルズベリーに生まれました。祖父は博物学者、哲学者そして医師であったエラスムス・ダーウィンで、種の発展についての考え方を含んだ4巻の論文集を発表していました。父もまた医師で、息子には家族の伝統を受け継いで欲しいと願っていました。16歳の時、ダーウィンは医学を学ぶためにエジンバラ大学に送られました。ダーウィンは動物学や地理学の授業により強く興味を持ちました。最終的に、父親はダーウィンをエジンバラから引き揚げさせ、神学を学ばせるためにケンブリッジへ送りました。

 1831年に、ダーウィンは、フィッツ・ロイ船長にビーグル号の冒険旅行に科学者として同行するように誘われました。続く5年間で、ビーグル号は南アメリカ海岸、ガラパゴス諸島、ニュージーランド、オーストラリア、南アメリカを回りました。航海はダーウィンにとって目を開かせるような経験でした。彼は化石や非常に多様な生き物たちを集め、スケッチをし、記録を取りました。見たものを元に、ダーウィンは生物が進化すること、進化は化石と生きている生物のサンプルを使って追跡できることを考えるようになりました。この中で、彼の地理学と地層の知識が役に立ちました。ダーウィンは彼の見た生物種の多く、特にガラパゴス諸島のフィンチと亀で顕著でしたが、自然選択の働きを通して、適応と変化が生じてきたのだと結論づけました。

 1836年にイギリスに戻ったダーウィンは、進化についての彼の理論をすぐには発表しませんでした。彼は材料となるコレクションの分類と標本化に時間をかけ、ビーグル号の冒険の記事を発表し、人気を集めました。1857年、若い生物学者のアルフレッド・ラッセル・ウォレスが、“自然選択による進化理論”の概要を記した書簡をダーウィンに送りました。ウォレスはダーウィンの意見を聞きたくて、できれば博物学者のリンネ協会で発表するための推薦を取りつけたかったのです。ダーウィンはウォレスと自分の研究が似ていることに気がつき、アイデアを盗んだと思われることを避けるために、彼自身の研究結果を燃やそうとも申し出たのでした。結局、両者ともにリンネ協会でその考えを発表しました。しかしながら、皆の注目と議論を呼んだのは、1859年に出版されたダーウィンの本、“種の起源”でした。この本は、一般社会と科学者の世界の両方で、社会的、宗教的、政治的、そして科学的な思考に対して、根本的な影響をもたらしました。ダーウィン自身は、この論争全てに嫌気がさしていて、騒ぎからできるだけ遠ざかるようにしていました。

 ダーウィンは自然史に関する他の課題で本や論文、“家畜・栽培植物の変異(1868)”、“人類の起原(1871)”を書き、発表しました。ダーウィンは自然選択説に対してなされたウォレスの寄与について、決して争うことはありませんでした。ダーウィンは1882年に亡くなり、ウェストミンスター寺院に眠っています。

factoid Did you know ?

チャールズ・ダーウィンの母方の祖父は、有名陶器メーカーのウェッジウッドを創立したジョシア・ウェッジウッド(1730-1795)でした。

Hmmm...

もし進化が、種の環境への適応なら、なぜ“悪い”形質がまだ存在するのでしょうか?